痛みと戦うという事
この記事はエロが一切ない記事になります。
当ブログを始めてちょうど1年半くらいになりますが、管理人はブログを始めて半年くらい経って病気を患い救急車で運ばれたり半年以上ほぼ寝たきりの生活をしていきました。
そしてなんとか体が動けるようになった時にコロナが世界中を襲います。
当時のコロナウイルスは未知のウイルスで、世間もその病気の恐ろしさに怯えていました。私自身も病気も回復しておらず免疫力も低い状態だったのでなるべく外出を控えるようにしていました。
そのことにより再度体を動かすのが非常に難しい状態に陥る事になります。今でこそコロナは感染力が高いものの致死率は低い病気であるといったイメージが定着してきましたが、それでも公共機関の乗り物に乗る際にはマスクを付けたりするのが暗黙のマナーのようになっている気がします。
これは日本人の気質から来るものであると思っています「他人にうつしたら悪い」や「他の人に指摘されたくない」といった感情なども要素として入っていると思います。
そんなこんなで私自身も外出の自粛をしていき、部屋に引きこもりパソコンをカタカタ打っているだけの体を動かさない日々を過ごしていきますが、その事で弊害が出てきます。
今度は筋肉の硬直による痛みが体を襲ってきます。
私の病気は、1年経った今で治らずに、何故痛みが出て歩くことも座る事も寝る事もままならないのかは医師でも分からないという所なのですが、そこに別の要素が加わる事によって私の痛みは増すばかりになっていきます。
私は痛みを3種類に定義分けしています。
1つ目は「肉体的な痛み」
2つ目は「精神的な痛み」
3つ目は「社会的な痛み」
なに偉そうに痛みの種類なんかを分類しているんだって言う話ですが、このように分類わけをしていかないと「今自分が何で苦しんでいるのか」と言うのが分からなくなっていくからです。今自分が苦しんでいる理由が一つでも分かるとほんの少しだけですが、痛みが紛れたり心が楽になったりします。
さて、話を痛みが増すという話に戻していきます。
「肉体的な痛み」が増すとどうなるかと言うと、私の場合は体を動かすこと自体が大変億劫(おっくう)になります。お恥ずかしい話ですが、立つという事ですら痛みが生じるのでその行為をする事自体に恐怖心を抱くようになるのです。
すると、次はどうなるのかと言うと「心が病んでいきます」。先程2番目に書いた「精神的な痛み」と同じです。
これは、アレをするとまた体が痛むのではないか?コレをすると体がおかしくなるのではないかと言う考えが脳内を回っていきます。いわゆる痛みと病気に対して心が負けてしまう状態ですね。
こうなると不思議なもので、痛みを感知する脳の器官が本来抑えるはずの痛みを増大させていくのです。単純に言うと「恐怖心が痛みを増大化」させているという事ですね。
これは闘病生活をしていく中の医学の本の中に書いていました。
決まり文句はこうです「気を紛らわす事をしましょう、楽しい事をしましょう」それが出来たらココまでの苦労はしていないんですけれどね……。
なんとかその恐怖に打ち勝って体を動かしても、正直に言うと「宝くじ」のような物で痛みが無い時も有れば地べたを這いつくばって泣きそうになるほどの痛みが自分の体を襲う事も有ります。こればっかりは、私自身でもいかんともしがたい事ですが生活をしていく中ではこの「宝くじ」を引いていかなくてはならないのが現状ではあります。
そして今一番私の中でネックになっているのが「社会的な痛み」です。
これが非常に難しいです。私はちょっと大きい企業に勤めていた過去があるのですが、そこで学んだのは仕事でも私生活でも一番大変なのは「人間関係」という事です。
仕事や生活をしていく中ではどうしても「社会」と繋がる事は避けても通れません。前回もどこかの記事で書いたかもしれませんが、私はまともに歩くことが出来なかったりするので当然のように色々な事を言われていきます。
「そんな姿で来るなんて社会人として失格だ」とか「社会性の無い人間に仕事をお願いする事は出来ない」等々大変すばらしいお言葉を頂戴する事が多いです。
彼ら、彼女らの社会性というのは何を指しているのか分かりませんが「歩くことが出来ない=仕事が出来ない」といったレッテルを貼られて仕事を断られるのは私の心にはかなり来るものが有りました。実際に彼らの仕事を見ても手前味噌ながら私に勝っているとは思えないのですが、歩くことがままならないというだけで多くの機会損失を生んでいるのは確かです。
それよりなによりも「自身の人間性」を否定されると言うのが私にとっては耐え難い屈辱的な物がありました。病気で歩けないのは甘えで自己管理が出来ていないと簡単に言われたりしますが、そんな風になりたくて誰もが病気になっている訳ではありません。ですが、そういう心の無い言葉を掛ける人が多くいるのも事実です。
そういった言葉を掛けられると育ちの悪い私は一瞬で頭に火が昇って「ぶっ〇すぞ、クズが。お前の出した書類はゴミだ!」と半沢直樹ばりに言いたいのですが、立つのもままならない状態でそれを言うとボコボコにされるのは目に見えているので温和な言葉を選んでテコ入れをするのですが、下に見られているのか図星なのか分かりませんがここでは書けない差別的な言葉を浴びせられたりもしました。
するとまた怒りが脳を支配していき、痛みが増して何も手が着かないという悪循環に陥ります。こういった「人間関係」の問題が更に私の体を蝕んでいきます。
そして、このブログを書いている今日ですが言葉では言い表せないほどの痛みが襲ってきました。まともに立つ事すら出来ずに道路の道端でうずくまる様になってしゃがみこんでいると、色々な人から奇異の目で見られたりもしました。そういった目で見られるのは病気になってからは慣れてきたつもりでしたが、まるでゴミを見るかのような感じで見てくる人も居るのでそれにはイラつきましたが(笑)
なんでこんな記事を書いたかと言うと、最近は本当に痛みに対しての対処の仕方が分からなくなってきてしまったのでアダルトのブログではありますが自分の気持ちを吐き出して少しでも楽になろうと思った次第であります。
twitter上でもめちゃくちゃ呟いていて、その度に色々な人が心配のリプライを送ってくれて非常に有り難ったです。でも、この痛みは全然治まりそうにも無いので皆様のタイムラインを汚す位ならブログにでも書こうかなと思い筆を取りました。
タイトルにある「痛みと戦う事」というのは非常に難しいです。巷ではこれで貴方の病気が治ると書いている本がアホほど売っていますが病気になった人って藁にも縋る思いなのでつい買ってしまうんですよね。で、読んでみると……。という事が非常に多いです、というか私もそのうちの一人でした。
ですが、痛みと戦っている人はあなたの身近にも多くいると思います。
そして、私個人としては「頑張れ」という言葉は気軽にかけるのは非常に危ないと言葉だと思っています。当人たちは既に頑張って病気や痛みと戦っていますからね、鬱の人に頑張れって言うのと同じ事ですのでオススメはしませんが状況を見て声を掛けてあげてくれたらなとか生意気ながら思います。
でも、私には頑張れって声を掛けてくださいね!
単純なのでそれでやる気が出ます(笑)
ようは本当に人を見て言葉を選ぶことが大切という事を書きたかっただけです。
言葉が持つエネルギーと言うのは本当に強くて、時には人を強くしますが間違ってしまうと人が死ぬことが有ります。これは昨今のメディアにも言える事ですね。
話が脱線しましたが、この記事を書いている間は痛みが少しまぎれました。
纏まりの無い記事になりましたが最後まで読んで頂きありがとうございました。
それでは、またお会いしましょう。
当ブログを始めてちょうど1年半くらいになりますが、管理人はブログを始めて半年くらい経って病気を患い救急車で運ばれたり半年以上ほぼ寝たきりの生活をしていきました。
そしてなんとか体が動けるようになった時にコロナが世界中を襲います。
当時のコロナウイルスは未知のウイルスで、世間もその病気の恐ろしさに怯えていました。私自身も病気も回復しておらず免疫力も低い状態だったのでなるべく外出を控えるようにしていました。
そのことにより再度体を動かすのが非常に難しい状態に陥る事になります。今でこそコロナは感染力が高いものの致死率は低い病気であるといったイメージが定着してきましたが、それでも公共機関の乗り物に乗る際にはマスクを付けたりするのが暗黙のマナーのようになっている気がします。
これは日本人の気質から来るものであると思っています「他人にうつしたら悪い」や「他の人に指摘されたくない」といった感情なども要素として入っていると思います。
そんなこんなで私自身も外出の自粛をしていき、部屋に引きこもりパソコンをカタカタ打っているだけの体を動かさない日々を過ごしていきますが、その事で弊害が出てきます。
今度は筋肉の硬直による痛みが体を襲ってきます。
私の病気は、1年経った今で治らずに、何故痛みが出て歩くことも座る事も寝る事もままならないのかは医師でも分からないという所なのですが、そこに別の要素が加わる事によって私の痛みは増すばかりになっていきます。
私は痛みを3種類に定義分けしています。
1つ目は「肉体的な痛み」
2つ目は「精神的な痛み」
3つ目は「社会的な痛み」
なに偉そうに痛みの種類なんかを分類しているんだって言う話ですが、このように分類わけをしていかないと「今自分が何で苦しんでいるのか」と言うのが分からなくなっていくからです。今自分が苦しんでいる理由が一つでも分かるとほんの少しだけですが、痛みが紛れたり心が楽になったりします。
さて、話を痛みが増すという話に戻していきます。
「肉体的な痛み」が増すとどうなるかと言うと、私の場合は体を動かすこと自体が大変億劫(おっくう)になります。お恥ずかしい話ですが、立つという事ですら痛みが生じるのでその行為をする事自体に恐怖心を抱くようになるのです。
すると、次はどうなるのかと言うと「心が病んでいきます」。先程2番目に書いた「精神的な痛み」と同じです。
これは、アレをするとまた体が痛むのではないか?コレをすると体がおかしくなるのではないかと言う考えが脳内を回っていきます。いわゆる痛みと病気に対して心が負けてしまう状態ですね。
こうなると不思議なもので、痛みを感知する脳の器官が本来抑えるはずの痛みを増大させていくのです。単純に言うと「恐怖心が痛みを増大化」させているという事ですね。
これは闘病生活をしていく中の医学の本の中に書いていました。
決まり文句はこうです「気を紛らわす事をしましょう、楽しい事をしましょう」それが出来たらココまでの苦労はしていないんですけれどね……。
なんとかその恐怖に打ち勝って体を動かしても、正直に言うと「宝くじ」のような物で痛みが無い時も有れば地べたを這いつくばって泣きそうになるほどの痛みが自分の体を襲う事も有ります。こればっかりは、私自身でもいかんともしがたい事ですが生活をしていく中ではこの「宝くじ」を引いていかなくてはならないのが現状ではあります。
そして今一番私の中でネックになっているのが「社会的な痛み」です。
これが非常に難しいです。私はちょっと大きい企業に勤めていた過去があるのですが、そこで学んだのは仕事でも私生活でも一番大変なのは「人間関係」という事です。
仕事や生活をしていく中ではどうしても「社会」と繋がる事は避けても通れません。前回もどこかの記事で書いたかもしれませんが、私はまともに歩くことが出来なかったりするので当然のように色々な事を言われていきます。
「そんな姿で来るなんて社会人として失格だ」とか「社会性の無い人間に仕事をお願いする事は出来ない」等々大変すばらしいお言葉を頂戴する事が多いです。
彼ら、彼女らの社会性というのは何を指しているのか分かりませんが「歩くことが出来ない=仕事が出来ない」といったレッテルを貼られて仕事を断られるのは私の心にはかなり来るものが有りました。実際に彼らの仕事を見ても手前味噌ながら私に勝っているとは思えないのですが、歩くことがままならないというだけで多くの機会損失を生んでいるのは確かです。
それよりなによりも「自身の人間性」を否定されると言うのが私にとっては耐え難い屈辱的な物がありました。病気で歩けないのは甘えで自己管理が出来ていないと簡単に言われたりしますが、そんな風になりたくて誰もが病気になっている訳ではありません。ですが、そういう心の無い言葉を掛ける人が多くいるのも事実です。
そういった言葉を掛けられると育ちの悪い私は一瞬で頭に火が昇って「ぶっ〇すぞ、クズが。お前の出した書類はゴミだ!」と半沢直樹ばりに言いたいのですが、立つのもままならない状態でそれを言うとボコボコにされるのは目に見えているので温和な言葉を選んでテコ入れをするのですが、下に見られているのか図星なのか分かりませんがここでは書けない差別的な言葉を浴びせられたりもしました。
するとまた怒りが脳を支配していき、痛みが増して何も手が着かないという悪循環に陥ります。こういった「人間関係」の問題が更に私の体を蝕んでいきます。
そして、このブログを書いている今日ですが言葉では言い表せないほどの痛みが襲ってきました。まともに立つ事すら出来ずに道路の道端でうずくまる様になってしゃがみこんでいると、色々な人から奇異の目で見られたりもしました。そういった目で見られるのは病気になってからは慣れてきたつもりでしたが、まるでゴミを見るかのような感じで見てくる人も居るのでそれにはイラつきましたが(笑)
なんでこんな記事を書いたかと言うと、最近は本当に痛みに対しての対処の仕方が分からなくなってきてしまったのでアダルトのブログではありますが自分の気持ちを吐き出して少しでも楽になろうと思った次第であります。
twitter上でもめちゃくちゃ呟いていて、その度に色々な人が心配のリプライを送ってくれて非常に有り難ったです。でも、この痛みは全然治まりそうにも無いので皆様のタイムラインを汚す位ならブログにでも書こうかなと思い筆を取りました。
タイトルにある「痛みと戦う事」というのは非常に難しいです。巷ではこれで貴方の病気が治ると書いている本がアホほど売っていますが病気になった人って藁にも縋る思いなのでつい買ってしまうんですよね。で、読んでみると……。という事が非常に多いです、というか私もそのうちの一人でした。
ですが、痛みと戦っている人はあなたの身近にも多くいると思います。
そして、私個人としては「頑張れ」という言葉は気軽にかけるのは非常に危ないと言葉だと思っています。当人たちは既に頑張って病気や痛みと戦っていますからね、鬱の人に頑張れって言うのと同じ事ですのでオススメはしませんが状況を見て声を掛けてあげてくれたらなとか生意気ながら思います。
でも、私には頑張れって声を掛けてくださいね!
単純なのでそれでやる気が出ます(笑)
ようは本当に人を見て言葉を選ぶことが大切という事を書きたかっただけです。
言葉が持つエネルギーと言うのは本当に強くて、時には人を強くしますが間違ってしまうと人が死ぬことが有ります。これは昨今のメディアにも言える事ですね。
話が脱線しましたが、この記事を書いている間は痛みが少しまぎれました。
纏まりの無い記事になりましたが最後まで読んで頂きありがとうございました。
それでは、またお会いしましょう。